『上安倉地車』は今から120年前明治25年に大阪住吉村(現在の大阪市住吉区)より入手したものがあります

 大阪から安倉村に地車が来た理由については様々な説を聞くが購入先である地車大工屋に現在も残っている請取帳(※1)から判断できる中でが一番有力だと考える説をお話しましょう

 明治25年大阪の住吉村にあった地車大工屋『大佐』では、11代目川崎仙之助、12代目宗吉(長男)、安次郎(次男)の三人によって年間二〜三台の地車を新調していました其の頃地車注文によって作られるものだったが『大佐』では常時必ず一台は作り置きされていたと思われます

 当時安倉村の世話役人達は安倉住吉神社の本宮である大阪の住吉大社に少なくとも年に一度は詣出ていたであろう其のときに住吉大社横にあった『大佐』で現在の上安倉地車(作置き地車)を見つけ、一目で気に入り購入を考えたものだと思われます

 

 しかし、その頃安倉は上・下(南)ともに太鼓台を持っており、秋祭りにはその2台の大鼓台を担いで村内を練り歩いていたので新しい地車を急いで購入する必要はなかつたと思われますが安倉が地車を購入する2年前の明治23年に隣村の伊丹荒牧が安倉と同じ『大佐』の地車を購入していることか強いライバル意識が働いて太鼓台を持っていたにも関わらず即刻購入するに至ったのかもしれません(太鼓台は現在尼崎で保存・巡行されているので後日また‥)

  世話役人達は『大佐』で見つけた地車の素晴らしさを早く村人に伝えたいと手付けをうち自分達の手で運ベる鬼板(※2)だけをすぐに安倉に持ち帰ったといいます

 もちろんその素晴らしさは説明するに及ばず鬼板を見ただけでもわかる程で(後に大佐の地車は独特の雰囲気を持ち地車の中でも格別人気が高く、有名となる)これが大鼓台を持って 

いながらも地車購入を決めた一番の理由である事は間違いないと思います

 先に述べた請取帳によると地車の引渡し日が明治25年11月26日(旧暦の10月8日)旧暦で行っていた秋祭りの四日前(大安)と記されています

ばらした地車を大阪住吉浜から船を使い牛車をもちい、安倉まで運ぶ事は容易ではなかったはずだが、それを安倉村の大柞氏(藤本松之助宅)の庭に持ち込み、さらに秋祭り曳行に間に合うように組み立てを行ったと思われます。現在の便利な世の中なら簡単な事だが、明治時代にこれだけのことをやつてのけた当時の世話役人や村人達の祭りや地車に対する熱意は、凄いものがあったと思われます。もちろん、その熱意は120年の時を経てもしっかりと受け継がれ、地車は今も変わることなく五穀豊穣を願って曳行されています。