安倉南地区(下安倉=しもあくら)には、昔『太鼓台』がありました。
太鼓台とは、御輿に似たもので、地車のように曳くのではなく、地車の上部分(チョウサイ棒より上部分)を担ぐといった形のものです(※1)その時代の秋祭礼には、上・下ともに太鼓台を担いで、勇壮に練り歩いていたことでしょう。
また、上安倉が地車を購入した明治25年からは、『上安倉の地車』・『下安倉の太鼓台』と二大柱で村内を賑やかに練り歩き、祭礼が執り行われていたと思われます。
しかし、太鼓台は担ぐため、担ぎ手には、相当な体力と人数が必要不可欠となり、徐々に人手不足となっていきました。そして、残念なことに、昭和35年前後、太鼓台はついにお蔵入りと
なり、その後、秋祭礼は上安倉地車一台で執り行う事となったといいます。
時は流れ、昭和59年のこと・・・
上安倉が地車を大修理し、地車保存会を発足させた年に、安倉南地区も大きな決断をしました。長年、お蔵入りとなっていた太鼓台を下取りに出し、上安倉と同じ住吉型の地車を新調すると同時に、安倉南地車保存会を発足させ、活動を再開させることにしたのでした。けれど、一度太鼓台をお蔵入りにさせてしまつたことを考えると簡単には決めることはできなかったと察します。
太鼓台を下取りに出して地車を購入しても、また人手不足で同じことを繰り返すのではないか・・。祭りは一年だけ執り行えばいいものではありません。次の年も、十年後も、五十年後も続けていかなければならないのです。それが伝統を受け継いでいくとでつことだからです。きつと当時の役員や村民、村役員が何度も何度も話し合いをした上で出されたであろうこの結論はとても大きな決断だつたと思います。
地車の新調は、上安倉が地車の昭和大修理をしたところの大阪岸和田、吉為工務店に依頼することにしました。
大工棟梁は吉為、初代吉野為雄が中心となり、彫刻氏は、筒井彫刻、初代筒井和男とその一門で、大阪夏の陣や、源平合戦などの立派な彫り物がほどこされた住吉型の地車は、約一年の製作期間をかけ、昭和60年2月に完成となりました。
新調から28年目を迎える今年・・
今では、安倉南地車保存会は会員も多く、若者も男女ともに増えています。若者から大先輩方まで一致団結して祭り、その他地車に関わる行事にも積極的に参加をしています。
そして今、安倉の秋祭礼には、二台の地車が二日間にわたって村内を練り歩いています。その姿はやはり勇壮で素晴らしいものがあります。今後も郷土意識を安倉に広め、高めつつ、安倉の秋の風物詩として秋祭りの風景が皆の心に残せるよう、我々は大切な歴史と伝統を守りながら、地車を伝承していきたいものです。