上安倉地車がここ安倉の地に来てから120年。
明治、大正、昭和、平成と時代を過ぎてきました。当初、地車は『若中―わかなか―』と呼ばれる青年達を中心に曳行されていました。そして、昭和14年『若中』は『青年団』とでつ名前に改称されました。
昭和40年頃までの安倉村内の道はほとんどが地道で舗装もされておらず、祭り前には必ず道を補修しなければ、地車を曳行させることなどできませんでした。青年団は祭り前になると、リヤカーや馬力車、皿篭などを使って土砂を運び、道のでこぼこをならしたり、穴を埋めたり、石を拾うなどして、祭りを行うために連日遅くまで大変な作業を続けました。それでも、地車の重量は3トンもあり、補修した穴に重みでコマが取られてしまうと横転したり、大屋根を飛ばしたりすることもしばしばあつたといいます。その度に地元の大工さんで修理し、何とか曳行を続けるものの、長い年月による彫り物の黒ずみや柱の歪みズレで、徐々に曳行もままならなくなってきたのでした。
昭和58年・・・新調からすでに93年が経っていた年のことでした。
これから地車をどうするのか・・・。村内の役員や青年団は何度も何度も話し合いを持ちました。地車の購入先だった『大佐』は昭和30年頃、すでに地車大工からは退いていたために、『大佐』での修理はできません。そこで地車で有名な大阪岸和田にある『吉為工務店』に修理を依頼することになりました。吉為工務店からは、同じ位の地車を新調するなら約8千万円(昭和58年頃です)でできるとの提案もあったのですが、当時の役員や村民が惚れ込んで手に入れた地車です。なんとか残したい思いが強かったのでしょう・・・。
黒ずんでいた彫り物を洗いをかけ(特殊な洗浄液で洗う)、主柱四本を残しながら、歪みや劣化が激しい部分は新しく入れ替えました。そして台八(足回り)の安定性を考え、泉州地方に多く見られる上地車の形にしたといいます。勿論大佐独特の持ち味、特長はしっかりと残しながら、約2500万円(当時)をかけての『上安倉地事昭和大修理』となったのでした。
またこれを機に、地車の管理・運営にもっと力をいれるべく、青年団とは別に『安倉地車保存会』(上・南)を発足させました。上安倉地車保存会は大修理を終えたばかりの地車(現存)を管理し、安倉南地車保存会は太鼓台を下取りに出し、地車(現存)を新調する準備に入りました。
安倉地車は年に一回の秋祭りに加え、市の協力要請があれば、宝塚祭りや様々な祝い事などに積極的に参加協力してきました。
その安倉地車保存会も今年で29年目を迎えます。今後も安倉の祭りや地車の伝統を守り、安倉をますます発展させ、大切に次世代へと継承していきたいと思います。
次回は、「安倉南地車新調と地車の軌跡」について書いてみたいと思います。