④松林寺


 浄土宗の総本山知恩院の末寺で、山寺を華岳山といいます。「元禄五年安倉村寺社改帳」には、藁葺であること、開基や寺歴は不明で中興の住職長有が搠ること61年前(寛永十年(1633))に亡くなったことが記されている。「蓮門精舎薔詞」にも元禄九年(1696)の記述として記されている。

 「摂津志」によれば、天正六年(1578)十月から十二月の荒木村重の乱により安倉は全村が焼亡し、村民は惣川奥の小屋田に逃れたと記されている。その時松林寺も焼失しすべての記録も失われたと思われる。その後再建されたが、再び火災で焼失したとの伝承もある。

享保八年(1723)に中興乗警上人が瓦葺の本堂を再建され、阪神淡路大震災まで約 280 年間のながきにわたって安倉の念仏道場の役割を担ってきた。

 

(備考)

 本堂の両脇にお祀してある善導大師と法然上人のお像は台座の記録から元禄五年(1692)のものと判明した。

なお、本堂は平成7年の阪神淡路大震災で倒壊し、平成11年に落慶された。

 

(出典)

(松林寺説明より抜粋:詳細は下に掲載)


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松林寺

 浄士宗の総本山知恩院の末寺で、山号を華岳山といいます。「大道」という小字が示すように、近世から伊丹の大鹿村から安食を通って小浜に通ずる街道に面して建っていました。

『元禄五年安倉村寺社改帳』には、藁葺であること、開基や寺歴は不明で、中興の住職長有が溯ること61年前(寛永十年(1633))に亡くなったことが記されています。浄土宗の『蓮門精舎舊詞』には、同じく開山由緒が不明で、中興開山誓譽長有が寛永十年(1633)六月十日に亡くなったことのみが、元禄九年(1696)の記述として記されています。

 『摂津志』によれば、天正六年(1578)十月から十二月の荒木村重の乱により安食は全村が焼亡し、村民は惣川奥の小屋谷に逃れたと記されています。震災後、庫裏の跡を基礎工事のため掘り起こすと、焼け土があったそうですから、松林寺もその時焼失し、すべての記録も失われたと思われます。その後、松林寺を復興したのが、中興開山の誓譽長有上人だと考えられます。誓譽上人の再建した藁葺の本堂がその後どのようなったかは不明ですが、再び火事で焼失したとの伝承もあります。

 享保八年(1723)に中興乗譽上人が瓦葺の本を再建され、阪神淡路大震災まで約280年間の永きにわたって安倉の念仏道場の役割を担ってきました。また、明治六年初め、松林寺に、安倉・中筋・中山寺三か村の児童が通う安倉小学校が創立され、後に、中筋・中山寺の児童は新しくできた中筋小学校へ移りましたが、明治十八年に国府小学校(現在の小浜小学校)ができるまで使用されました。

 平成七年の阪神淡路大震災では本堂・庫裏とも復旧不可能な被害を受けました。しかし、檀信徒はじめ地縁の皆様のご協力を得て復興し、平成十一年十一月落慶することができました。

 現在、本堂の両脇にお祀りしてある善導大師と法然上人のお像は台座の記録から元禄五年(1692)のものと判明しました。ご本尊の阿弥陀如来像と観音・勢至両菩薩の台座に同様の記録がないことと光背の形から、おそらくご本尊の阿弥陀如来像と観音・勢至両菩薩は、より古い中興開山誓譽長有の時代のものだと推測されます。『摂陽群談』第十四巻には、「松林寺、同郡安倉村にあり、山号花岳山と稱す。浄土宗門知恩院末寺、本尊弥陀、仏工運慶造の霊像也」とありますが、これをそのまま事実とは考えにくいのですが、ご本尊と両菩薩像は運慶の作でないとしても、運慶・快慶の流れを汲む慶派の仏師の作になるものではないかと推測できる材料だと思えます。震災後、ご本尊の阿弥陀如来像と観音・勢至両菩薩の修復を、京都の現在、慶派唯一の大仏師である松本明慶師にお願いすることができました。師はNHKや民放のテレビの特集番組をご覧になった方はよくご存知のように、平成の大仏を作ったことでも知られる運慶・快慶の正当な後維者です。もしかして、江戸初期慶派の名工の手によるご本尊の阿弥陀如来像と観音・勢至両菩蔭が、平成になって、慶派の大仏師の手で立沢に修復されたとすれば、歴史のロマンを感じずにはいられない気がいたします。

 

主な年間行事   春と秋の彼岸会、お盆の施餓鬼会、お十夜、お念仏会